味処桐の息子です。昨日7月19日、味処桐は閉業いたしました。
昭和43年開業以来56年間。本当にいろいろなことがありました。
はじめは、少しだけ離れた場所、今もがんばっている喫茶店「琥珀」さんがある通りから、父と母ふたりでスタートしました。それからおそらく10年後くらいに、今の大通りに面した場所に移った次第です。
東山温泉や割烹の料理長などを経た亡き父、先代店主の腕は確かで、勉強熱心でもありました(まあ酒と晩年はやめたパチンコも非常に熱心でしたが)。ですからきっと鳴り物入りで桐を開業したのでしょう。当初は神明通りも大変賑わっていました。デパートや百貨店もあり、映画館もすぐ近くにありました。桐の下の階はミスタードーナツでした。
桐も毎夜遅くまで満席で、大変繫盛していました。それからかわいい娘や息子(私)に恵まれ、店も会津若松駅前のフジグランドのビルに2号店を出すなど、順風満帆でした。その頃は釜めしや茶碗蒸し、桐定食や自慢定食などかなりメニューも豊富でした。私も小さい頃から桐のカウンターで割りばしを箸袋に入れるのを手伝ったり、働く両親を間近に見て育ち、やがて店を継ぐことも漠然と考えていました。
しかし父がちょっとした金銭トラブルに見舞われ、やがてバブル経済が終わると、桐も徐々に厳しい状況になってきました。私が「店は継がないほうがいい」と親から言われたのも、この時期でした。それから暗く長いトンネルが続きました。借入金も、両親のため息も増えていきました。
そんな時、父が出会ったのが、”伝統会津ソースカツ丼の会”でした。会津の食堂のオヤジとおかみで2004年に結成された、情熱的な会です。もともと明るく熱意もある父もそこに入って、仲間たちと話すことが生き甲斐になっていったようです。
桐のソースカツ丼は当時人気こそあれ、代表メニューではありませんでした。しかしソースカツ丼の会に入り活動するにつれソースカツ丼を推すようになり、今ではそれを目当てに地元だけでなく観光客や教育旅行の方々もたくさん来てくれるようになりました。
ですから、東日本大震災の打撃は軽いものではありませんでした。県外の人が福島県に来てくれない日々が始まったのです。でもそんな時にも、ソースカツ丼の会の仲間と被災地に炊き出しに行ったり、復興イベントを共にがんばったりして、決して父は弱音を吐いてはいませんでした。
やがて風評被害も収まってきて、桐の借入金も少なくなってきました。父もソースカツ丼の会という居場所を見つけ、母もそんな父を見て、店もメディアに出たりし始めるなどしてふたりに笑顔がようやく戻ってきました。でもその矢先、母が脳内出血を起こし運ばれてしまいました。
幸い体が動かなくなったりはしませんでしたが、言葉が出てこない、読めない、書けないという言語障害を負うことになってしまいました。今でも見た目や話し方は普通なので、「全然病気には思えない」と言われるのがもどかしいそうです。今回閉業するのはこの病気のせいでもあります。
そして、コロナ禍がおきました。全ての飲食店に言えることですが、商売はできませんでした。時短協力金をもらって細々と営業する日々でやがて、父のガンが見つかりました。今思うと店もカツ丼の会も入院中の面会も無いコロナの日々が、精神的に父を弱らせていたのかもしれません。2021年、父はあっけなく亡くなりました。愛する孫の高校の制服姿も、見る事はできませんでした。遺影は、カツ丼の会のハッピ姿にしました。
失意のなか、しばらく休んでから母は、味処桐を再度開店しました。私も周囲も反対しましたが、「お父さんの思いを継ぎたい、やれるところまでやりたい」と頑固に言ってきかない母に最後にはみな折れて、協力することになりました。
大きかったのが、母の二人の妹が手伝ってくれたことでした。二人がいなければ、桐の再開は無理だったでしょう。そうしてようやく桐のいろいろな悪い出来事が無くなったのですが、同時に母の体力も気力も無くなってしまいました。私も若い時に、継ぐなと言われても継いでいたら、と今さら思ったところで仕方ないですね。
そして昨日、無事に母も倒れたりすることなく、暖簾を下ろせました。
桐に来て下さった全てのお客様をはじめ、手伝ってくれたおばさんたち、伝統会津ソースカツ丼の会の皆様、神明通り商店街の皆様、取引業者の皆様、各メディアの皆様、SNSで応援してくれた皆様、大家さん、他にも数え切れない方々にただただ感謝します。
本当に本当に今まで、ありがとうございました!!
母はもうお休みをいただきますが、この味処桐を継いでくれる方がもしかしたら今後、おられるかもしれません。その日を願って、いつかまたどこかでお会いできるのを楽しみにしております。